相互礼拝

年も明け、平成二十九年も一月も半ばを過ぎようとしていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

昨年は、非常に災害が多いように感じられました。被害にあわれた方々には心よりお見舞い申し上げますとともに、今年こそは平穏に、また皆様に幸多い年となることをご祈念申し上げます。

 

さて、私はよくお参りの際に、時間があれば檀信徒の方々とできるだけ世間話をするようにしています。今回はその際に感じたことをお話しさせていただこうと思います。

お話をしてくださる方々は私よりもはるかに年配の方が大半です。

にもかかわらず、若輩の私に色々な悩みを相談される方もいます。

ほとんどの悩みは私が解決できるような術を持たない相談ばかりです。

はじめのうちは、相談を受けても解決できる力のない自分に嫌気がさしたり、逆に情けないことに「私にそんなこと相談してもどうすることもできないのに」と心の中で相談される方々を責めていたこともありました。

しかし、そんな私の弱さを檀信徒の方々の前で出すことはできませんでした。

なぜなら、檀信徒の方々が私に手を合わせてくれたからです。こんな私を「お寺さん」として扱ってくれていました。

お寺のことで檀信徒の方々に教えていただいたことも多々ありますし、間違えを指摘していただいたことも多々あります。

何も知らず未熟な私をそれでも「お寺さん」として扱っていただきました。

このままではいけないなと思い、力をつける努力をしようと思うようになりました。

今では、自分の手に余る相談に対しても、昔のように余計なことを考えず、ただ聞くことができるようになりました。解決する術はもたないけれど、お寺さんに話すことによって心の中にある重いものを吐き出して、楽になることがあるのがわかったからです。

楽になった心で今までより少し日常をがんばれるようになってほしい、そのような思いで相談を受けることが出来るようなりました。

最近「お寺さんらしくなったね」とある方に言われました。

そうならば間違いなく檀信徒の皆さんに「お寺さん」にしていただいたのです。

 

私は昨年、縁があって高野山に登り御詠歌の養成講習に参加させていただきました。

そこで、御詠歌の五綱目をならいました。その一つに次のような言葉があります。

人各々仏性有り、相互に礼拝すべし(ひとおのおのぶしょうあり、そうごにらいはいすべし)

(意訳:人にはそれぞれすぐれた可能性が秘められている、互いに礼拝しなさい)

礼拝する相手には尊敬の念を伴うのが常ですから、現代の意味になおすと互いに尊重しなさいという意味にもなるかと思います。これを略して相互礼拝と申します。

私に檀信徒の皆様が与えてくれたものはまさにこの精神だったのではないかと思います。

私もまたこの御恩に対し、檀信徒の皆様に心より手を合わせたいと思います。

現代社会は本当にさまざまな問題が噴出し、なかなか人の心に余裕のない気遣うことのしにくい時代になったと思います。

だからこそ相互礼拝を心の隅にとどめておいて、自分の可能性を信じ、他人の可能性を尊重する精神が必要ではないかと思います。

文章 K寺 T師

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