仏教は矛盾している

 先日YYahoo知恵袋に仏教の「あらゆる煩悩を捨てる」事についての質問があった。

要約すると「欲を捨てることで欲しいものが手に入らないなどの苦しみから解放されることは理解するが、本当にあらゆる欲を捨てれば無感情な人生になってしまいませんか」との内容であった。

芯を食った良い投稿だと思った。

この問題を考えるには仏教が考えるゴールは何かを考える必要があった。

仏教のゴールは『悟りを開く』事だ。

『悟り』とは迷いや悩みが消えた状態の事で、つまり『悟りを開く』とは『迷い悩みの苦しみが無く、幸せに生きる』と言うことだ。

そこで『幸せに生きる』ために、自分が感じる苦しみの元となる欲は捨てればいいよねと言う考え方が仏教である。

要するに自分が苦しくなるような欲は捨てるべきだが、全ての欲を捨てる必要は無いと解釈できるし、この考え方からいけば個人個人によって捨てるべき欲の種類はバラバラであるとも言えるだろう。

もっと言うなら一定の欲はあった方がいい、欲は人の原動力になるからだ。

そもそも仏教自体が苦しみから解放されたいと言う欲から生まれた思想論であることがそれを物語っている。

だから幸せに感じる事柄なら欲は捨てなくていい。

幸福感に包まれるのであれば酒も飲めば良いし、物欲があれば手に入れれば良い。

ただし、酒の飲み過ぎは二日酔いの苦しみに変わり、身の丈以上の『モノ』を求めれば借金地獄の苦しみに変わる。

求めすぎることは『苦』の始まりであって、『幸』から『苦』になるならばその欲は捨てるべきだろう。

話は最初に戻るが、「あらゆる煩悩を捨てる」と言う考えは仏教には無く、幸せのために『欲』は程々が良いと言うのが私の仏教思想の解釈である。

私の解釈と書いたのは、解釈の仕方に正解など無いからだ。

そもそも仏教は矛盾点も多く、様々な解釈ができてしまうものだ。

それでいいと私は思う。

仏教を創ったのは釈尊で私たちと同じ人間が創ったのだから矛盾点があるのは当然だし、様々な解釈ができる穴があるからこそ、様々な人の心の拠り所になって、現代にまで続いてきたと言えるからだ。

勿論、仏教の考え方が何よりも1番だなんて言うつもりもないし、そんな訳があるはずもない。

ただ、、もし今悩んでいることや苦しいことがあるなら、それこそ幸せになるために仏教の教えを都合よく自分なりに解釈して、ひとつの考え方として咀嚼する事で、自分の心を保つ拠り所にしてみてはと思うだけである。

南無大師遍照金剛               9班 竹屋 真征

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