瞑想体験で驚いた話

自坊の掲示板に「真言宗の瞑想 阿字観。やってみたい方は住職までお声がけください」と張り出しているのですが、先日体験してみたいという若い女性が来寺されました。

「マインドフルネスがすごく流行っていて、何も考えず心が落ち着いて幸せになれると聞いて。悟りって言うんですよね?」。

近年では国営放送であるNHKでも繰り返し放送されて社会的に認知されており、瞑想を導入する会社も増えて、瞑想に触れる機会は増えています。

(NHKスペシャル「キラーストレス」でマインドフルネス瞑想。「サイエンスZero(真・瞑想法 マインドフルネス で脳を改善!)」など)

心が落ち着くとか多幸感があるという効果を期待されてくるのはかまわないのですが、最近流行のマインドフルネスで「自分の心と身体を観察して内省する」事があまり言われないのは残念だなと思っております。マインドフルネスを続けても仏教的な悟りに達することはないでしょう。瞑想という言葉の認識がかなり異なっていて、新鮮な驚きでした。

釈尊は悟りを開く前、アーラーラ・カーラーマ仙人と、ウッダカラ・ラーマプッタ仙人について、学問や論理学を通さない最高の禅定である「非想非非想の禅定」に到られましたがそれを捨てられました。

なぜ捨てたのでしょうか?

それは「考えない・考えることもしない」心の状態や意識は、その状態では幸せですが一旦その瞑想から離れて現実に戻れば苦悩や不安が何一つ解決していなかったからです。

そんな瞑想は無意味だし、なんの解決もしないとして二人の仙人から離れられたのです。

構造や仕組みがわからないまま、ただ効果だけを求めるのは、何の学びもしないで病気や怪我をした方に、投薬や手術をして治療する様なものでしょう。

入り口としては効果でかまわないかもしれませんが、「観察する対象を定めてそれをしっかりと把握すること」が瞑想の基本です。考えなくてもよくなるまでは、徹底的に考えることが大切です。

自分の心と身体を観察して、自身はどういった仕組みで心体を動かしているのか、認識をしているのか、を知っていくことが貪瞋痴の三毒(自分勝手な欲、怒り憎しみ、愚痴やおろかさ)に根ざした考え方や捉え方が自然となくなっていく道ではないでしょうか。

一時的に苦しいことを忘れるより、変化を苦しみと感じなくて済む心と身体を一緒に作っていけたらと願っています。

          南無大師遍照金剛

                             5班 真言寺 笠谷 容真

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