お供え

 恥ずかしながら私は、子どもの頃からお供えする花の片付け、灯明の安全管理、灰汁濾しなど、何かと面倒に思っていました。

 お盆、お彼岸の入りに母がお団子をお供えします。中日には改めてお供えし直します。以前、お供えしたお団子は固くなりところどころ傷んでいます。綺麗な仏花をお供えしても、みるみるうちに綺麗な姿も失って憂いを抱いてしまいます。灯明、お線香も次第に短くなって燃え尽きてしまいます。

 昨今は、巧妙な造花、電気の灯明、線香など、便利?なものが多くなってきていると思います。そういうものを取り入れて便利にすればするほど、お寺が良くなっていくものだと理想を頭に描いて日々過ごしていました。 「どうして、こんな事に労を費やさなきゃならないのか!」、「おれは、こんな事に手間をかけることはしたくない!」と母に愚痴を溢したこともありました。

 無くならないものへの憧れ。枯れないものへの憧れ。ラクをすることへの憧れ・・・
仏教的に言えば、生きることの放棄とも言えることです。自分の菩提心の浅さを恥ずかしくなります。無くなるから尊いんだ!枯れるから尊いんだ!どうして心からそう思えないんだ?と自問の日々です。心から素直に言えるようになったら自分も大したものだなと思います。そうなれたら、自分を偉いなんて思わないんでしょうけどね(笑)

 一方で、観想で無いものも生むことができる!それが真言宗の魅力だとも思っています。有る無しの問題ではなく、自分がそれを想えるかどうか!だからこそ、形の変わらない象徴でもよいのではないか?と思う今の自分もいます。
これから出逢う人の想いを受けながら、そして、皆様にご指導頂きながら、自分の菩提の道を歩んでいけたら幸いに思います。

合掌

文章 十教区  S寺 I師

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