人として

この度、熊本を中心とする地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げると共に、被災された皆様方には心よりお見舞い申し上げます。4月14日より発生した相次ぐ地震、1週間以上たった今でも、身体で感じる揺れだけでも800回を超えていて、約20万人近くの避難者であふれ、救援物資が被災地に届かないなど、困難な避難所生活を余儀なくされている。そんな中で様々なトラブルや悪質な犯行も起きています。避難所での生活臭や女性の着替え、災害ゴミ問題、空き巣や窃盗など挙げれば限がないですが、何といっても水や食糧の問題です。さらに、ネット上では隣国の災害を喜ぶ書き込みが噴出し、地震記念セール企業まで現れたとの1部のニュースサイトでは報じている。何とも低劣な人間性なのか。

人間にとって大事な衣食住(着るもの、食事、住む家)があって始めて安心して生活、暮らしができるものです。あたりまえにあった物が今回の地震という天災において、失われてしまった被災者の心境は痛いものです。良心のないその行為には憤りを感じるくらいです。また、ただでさえ避難所生活にストレスを感じている被災者に心なき異常な取材の報道陣など、人としてのモラルに欠ける問題視する行動が増えてきています。それとは逆に、日本国民のみならず、米国、台湾等、たくさんの支援物資、ボランティア活動、応援するエールなど寄せられていて、被災地側としてもかなり勇気付けられているのが現状です。

素晴らしいことです。今、人としてできること、今自分に何ができるかによって人の真価が問われるのではないでしょうか。これは、極々あたりまえの事なんです。でも、このあたりまえの事が出来なくなってきている世の中に変わってきています。物質的に恵まれた近年だからこそ必要な心、『相互供養・相互礼拝』なのではないでしょうか。私たちは、目に見えない多くの人や自然のいのちの恩恵、おかげによって生かされています。だからこそ感謝せずにはいられません。人が人として生きる為には、お互いに尊敬し合う事、敬う心が大切です。『ありがとう』『御苦労さま』『おかげさま』など日々の生活に互いに手を合わす心が必要です。これによって、他人、親子、友達関係にも心の触れ合いが生まれます。供養とは人が共に養われこそ真の供養へと変わるのではないでしょうか。私、僧侶として忘れかけている精神を今一度、未来へ繋ぐために伝えていかなければならない大事な役割であることを心に懸け日々の精進に勤めたいと切に思います。被災地の復興を願って…

文章 K寺 K師

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